ゲームブック 温故屋

水本シズオと申します。「ゲームブック」の話題が中心のブログです。

『宇宙の果てで森山と握手』(イガラシイッセイ)その2

 今回の記事は前回の続きになります。

★受け身&アクティブ
 結論から先に述べてしまうと、私は本書を読み、「結局、自分の存在って何なの?」というテーマを、作者のイガラシさんは追求されたかったのだと確信しました。その視点で見ると、主人公である「オレ(荻野)」の不可解な行動パターンも理解できます。
 本作において、「オレ」の行動はきわめて受け身的です。頼まれれば簡単に地球を離れる決意をし、頼まれれば意味のわからないまま転送作業を手伝います。しかしオレの行動は受け身的といっても、そこに「やらされている感」はありません。なんとか相手の力になりたいと願い、適切なる結果を求めて試行錯誤もします。そこにはきわめてアクティブな「オレ」の姿があるのです。「受け身」と「アクティブ」、一見相反する性質ですね。でもここに、「結局、自分の存在って何なの?」という問いへの、作者の答えが隠されている気がするのです。

★自己&他者
「自分の存在って何なの?」。これをテーマにした小説はよく見かけます。そして導かれる結論は、自虐的な結論であったり、逆に自己を安全圏においたうえでの社会批判的な結論であったりと、様々です。では作者のイガラシさんの結論はどのようなものなのでしょうか。私は本作を読み、次のように推測しました。

「やっぱりよくわからないけど、自分の力を必要としてくれる人がいるならば、とりあえず全力を尽くすのが自分の役割である」

 シンプルですが、非常に清々しい答えです。ここで大事なのは、イガラシさんは「自己」を考える際、同時に「他者」も意識し、それを必要不可欠なことと感じている点です。ひとりでも導ける自虐的な結論や社会批判的結論とは、明らかにそこが違うのです。
 本作では中盤から、オレ(荻野)と森山の意思疎通がうまくいかなくなり、オレの行動から輝きが失われていきます。そして森山が消滅してしまうと、オレの意識も「誰かの存在」を欲したまま遠のいていき、作品は終わりを迎えます。「他者」がいなくなった時点で、「自己」の存在意義もなくなってしまったのです。

★前作との共通性
 私は本作『宇宙の果てで森山と握手』を、「不可解な主人公」と「正体不明の相手」とのやり取りを通し、「自分の存在って何なの?」という問いに、イガラシさんが自己問答的にせまった作品と理解しました。そしてこの作品構造は、イガラシさんの前作『相棒とファミレスで会う』(『突き抜け1』に収録)の構造とほぼ一致するものとなっています。受け身アクティブな主人公の性質や、人とのつながりに重きを置いている点も同じです。

 答えの出ない、しかし生きていくうえで避けられない「自分の存在って何なの?」というテーマ。これをストイックに、そして誠実に追求し続けているイガラシさんの執筆姿勢には、同年代(たしか)として素直な感動と、頼もしさをおぼえたのでした。